クチャンベツ沼ノ原は空高く 辺境のトムラウシは秋色深し(中編)
色づいた紅葉の道を進み、大自然に包まれた1日目はヒサゴ沼避難小屋まで。
1日目の夕方から吹き始めた強風を凌いで一晩を過ごしたヒサゴ沼避難小屋から、旅の2日目は遂にトムラウシ山を目指す。
前編
登山2日目の朝。
昨日の夕方から強くなった風は、結局一晩を通して吹き荒れていた。
それは霧の立ち込めた朝になっても相変わらず。
避難小屋周辺でさえ風速15m近くの暴風。
ここは潔くトムラウシ山を諦めて引き返すべきか悩みながら周囲をうろつくうちに、出発時刻はどんどん遅くなっていく。
ヒサゴ沼周辺は電波が入らないが、昨日下りてきた道を10分程引き返せば、なんとか繋がった。
携帯の情報によると、昼前から徐々に風は収まっていくらしい。
小屋周辺で、ああでもないこうでもない、行こうか行くまいかと悩むこと2時間。
決断らしい決断はできず、撤退する踏ん切りもつかず、結局足はトムラウシ山方面へ進んでいった。
窪地にあるヒサゴ沼避難小屋から、まずは稜線へ出るため坂を登る。
出発してすぐ、50mほど高度をあげると登山道が雪渓に覆われていた。
少し右に目線を移すと岩肌が露出していたので、登山道の雪渓を避けてそこから登る。
時刻は朝7時過ぎ。
本来であれば、日が登る前の未明に出発するはずだった。
予定通りであればこの時間には山頂へ着いている予定で、さらに言うと今日中に登山口まで戻って来られるはずだった。
出発から30分、ヒサゴのコルに到着。
暴風で出発が遅れて予定が狂った。
山中でもう1泊しなければ、登山口まで降りられない。
分岐からは稜線を歩く。
風は相変わらず強いけれど、稜線に出ても体が持っていかれるほど強くはない。
朝一の天気よりも、徐々に快方に向かっている気がする。
強風のおかげで、たまに見え隠れするトムラウシの山体。
全容は未だ見えないが、おそらくこの後ろにさらに高い山頂があるのだろう。
吹きっさらしの大地には、風からの逃げ場は全くない。
十数年前に怒った遭難事故でも、強風による体力消耗の影響は大きかったと聞く。
常に雨風にさらされることになるため、天候次第では撤退の決断も必要かもしれない。
相変わらず視界が悪い中、道を進む。
雰囲気からして、場所でいうと日本庭園周辺だろうか。
木道と、たまに岩のブロック道の繰り返し。
なだらかな稜線ではあるが、道迷いの心配はあまりなさそう。
ヒサゴ沼避難小屋出発から1時間45分。
日本庭園も抜け、次はロックガーデンと呼ばれる場所に到着。
どこにいるのか、ナキウサギの声がいたるところから聞こえている。
望遠レンズを装着してナキウサギ探しをしたいところだが、今日に関しては全く時間に余力がない。
もっとゆったりした旅であればここで休憩したかったなと、後ろ髪を引かれながら先へ進む。
見通しが悪いとペンキマークを探すのも大変。
ただ、そこまで不安定な岩は少ないため、幸いなことに足場探しには苦労しなかった。
一瞬顔をのぞかせる青空。
でもまたすぐ、雲の力に押し負ける。
北沼が見える位置までようやく到着。
トムラウシ山に登るにはこの岩山に取り付き、右から巻けば山頂を経由せず最短で南沼のキャンプ指定地へ抜けられる。
風は依然として強いものの、時折日差しが顔を出してきている。
分岐から山頂まで、岩場の登り道が20分。
飛行機経由の登山では、常に帰りの時間が気になってしまう。
明日には空港へ帰らないといけないため、山頂でゆっくり天気が回復するのを待つほどの時間は残っていない。
早く頭上の雲よなくなれと願って登る。
左に目を向けると、小さな岩山の上に人が集まっている。
おそらくここが山頂だろうか。
そして午前10時、遂に山頂に到着。
ヒサゴ沼避難小屋から強風の中を3時間かかった。
山頂到着とほぼ同時に、青空も優勢に変わった。
やっぱり、空が青いと心も弾む。
流石の100名山、9月の連休ということもあって、山頂は記念撮影などで賑わいを見せている。
山頂の人々もみんな笑顔。
色んな思いを持ってここに来た人も多いんだろうなと、自分も感慨深い気持ちになる。
トムラウシ山頂からの景色。
この道中、常に近くに見える石狩岳。
昨日登ってきた平坦な沼ノ原の大地も、山頂からよく見える。
山頂周辺は荒々しい岩場で出来ている。
草木も全く生えていない。
トムラウシ山頂の裏側の景色。
この旅で初めて、十勝連峰を望む。
沼ノ原から登ってくると、トムラウシの裏側は山頂に来るまで全く見えなかった。
直前に天気予報を確認してから行ける本州の近場の山とは違い、北海道の山は数ヶ月前から航空券を取らなければならない。
その難易度と心理的距離も相まって、引き当てた晴天への喜びもひとしお。
ずっと夢だったトムラウシに登頂できた喜びも束の間、もう時間は10時30分。
のんびりしてはいられない。
引き返しながら、この後の行程を考える。
トムラウシ山頂から登山口までは約8時間。
それに加えて、ヒサゴ沼避難小屋に置いてきた残りの荷物を取りに寄り道して合計9時間30分。
単純に計算すると登山口への到着が20時なので、もう今日中には帰れないと理解した。
今日寝泊まりできる場所はヒサゴ沼避難小屋と、五色岳分岐から1時間程ルートを逸れた忠別岳避難小屋、そして登山口近くまで戻った沼ノ原の大沼キャンプ指定地。
明日の飛行機に間に合うためにも、できるだけ今日中に戻っていた方が良いのは間違いない。
ペースをあげて、なんとか日暮れまでに大沼でテントを張ろうと目標を設定した。
気づけば既に全方位晴れ渡っていた。
北沼も、綺麗な深い青色を見せる。
景色が見えると、稜線歩きはやっぱり楽しい。
強風を縫って数時間前に通った道のはずなのに、目新しい景色にカメラのシャッターが止まらない。
丸2日歩いてなお、はっきりと町の様子が見えるもの少し不思議な感覚。
カムイミンタラとは言うものの、神々の庭と人々の営みとの距離は、さほど遠くないらしい。
ロックガーデンの上部まで戻ってきた。
写真では絶壁のように見えるが、アルプスではよくある程度の傾斜。
ナキウサギは雷鳥と同じく晴天が苦手なのか、帰り道は鳴き声があまり聞こえず。
朝は見えなかった天沼。
北沼やヒサゴ沼と同じく深い青が綺麗ではあるが、規模は他の二つと違って小さめ。
酷暑が続いた時は干上がらないか、少し心配なくらい。
天沼を過ぎてさらに進むと、稜線上からも見るヒサゴ沼がよく見える。
避難小屋の大きさと比較しても分かるように、天沼の何十倍、何百倍も大きい。
12時30分、ヒサゴのコルまで戻ってきた。
置き忘れてきた荷物を小屋に戻るため、通常プラス1時間30分。
急いでいる時に限って、物を忘れて運がない。
雪渓の下りは少し怖いが、足裏を滑らせながらだと案外問題なく進める。
あっという間に下まで戻ってくることができた。
6時間ぶりに戻ってきたヒサゴ沼避難小屋。
中はがらんどうで、既に誰もいなくなっていた。
荷物をまとめて詰め直し、下山道中の大沼キャンプ指定地に向けて再出発。
何故今朝はトムラウシ山への出発が遅れたのかと理由を忘れてしまうほど、昼前からは快晴無風の登山日和。
太陽光線が痛い。
日差しを遮るものもなくなり、暑くて上着も脱いだ。
秋の大雪山の天気はめまぐるしく変わる。
昨日から今日にかけて、天気には振り回されてばかり。
そういえば、変わりやすいものの例えで「女心と秋の空」と言われるが、果たして本当に夏より秋の空の方が変わりやすいんだろうか。
感覚的には夏に軍配が上がる気がする。
ヒサゴ沼分岐まで登り返し、再び稜線に復帰。
この時点で時刻は14時。
寄り道になるとは分かりつつ、昨日往路で立ち寄れなかった化雲岳に向かってみる。
ヒサゴ沼分岐からは、片道15分程度の道のり。
山頂にある化雲岩は目立つ。
その岩に登る人も、やはりそれ以上に目立っている。
化雲岳山頂へ到着。
化雲岩は、近くで見ても凄い存在感。
あと、案外容易には登れそうにない。
化雲岳からは北側の展望が開け、遠く旭岳までの圧巻の紅葉が一望。
ちょうど大雪山系のへそのような位置にあるため、全方位景色を楽しめる。
こちらは天人峡方面。
旭川の天人峡温泉から歩いてくると、ちょうどここ化雲岳に辿り着くらしい。
こちらは恐らく忠別岳。
西側の斜面にかけて、黄色く染まった紅葉が見事。
そして北海道最高峰の旭岳。
紅葉成分は薄く、迫力ある威風堂々の面構え。
日本の東側に位置する北海道は、日の入り時刻が早い。
既に日は傾き始め、先ほどまでの真っ青な空から、夕方の少し淡い色に変わりつつあるのを感じる。
引き返してきた道のりを振り返る。
昨日は全く見えなかったトムラウシが、今日は堂々と存在感を放っていた。
数時間前まではあの山頂にいたと思うと、感慨深い。
夕暮れ前の木道をひとり歩く。
大自然の中、誰もいない物寂しさもまた贅沢。
背丈ほどのハイマツ帯も、しっかりと枝が切られているから歩行に支障はない。
さすが大雪山主稜線の登山道。
15時30分。
この旅2度目の五色岳山頂に到着。
展望は昨日よりも良い。360度遠くまで見渡せる。
五色岳山頂から見た大雪山の中心部。
右手前が忠別岳で、左奥には旭岳。
見える山々は変わらずとも、化雲岳山頂からとは見え方が少し違う。
この旅ではいつも一緒でお馴染みの石狩岳。
帰路はずっと石狩岳に向かって歩いて行くことになる。
五色岳山頂からは、勿論ニペソツ山もばっちり。
高い山のない方角に、少し変わった形の山。
これは北見富士だろうか。
日高山脈の一端もしっかり確認できる。
以前登った思い出深い神威岳は、ここからは見えているのだろうか。
知識の少ない山域では、山の形から山名を判別するのが難しい。
五色岳での休憩は5分少々。
そろそろ夜の足音が聞こえ始める。
暗闇に包まれる前に大沼でテントを張るため、先を急ぐ。
後編